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昨日買った「こけ玉」です。

 

昔からよく行く和食器のお店にフラリでかけました。

独身の頃、中学時代からの親友が連れていってくれたのが最初で、それ以来もうずっと何かあればフラリ立ち寄るのです。

 

そのお店には、店の主「おとうさん」と娘さんがいます。

 

みなさんにもありませんか?

 

別に何を買いたいわけでもないけれど、フラリ寄ってみたくなるような場所が。

私にとってこのお店はそんな場所です。

 

居心地が、いいのです。

居心地の良さの「もと」は何だろう?

 

それを構成しているのは

     その場を作っている人、そこにいる人

     お店の雰囲気

     その場に集ってくる人

です。

 

この小さなお店には、いろいろな人が入れ替わり立ち代わりやってきます。

「おとうさん」目当てのお客さんも多いのです。

 

そういや、父が亡くなった後、心がポツンと穴があいたような時にも

フラリやってきたりしてます。

 

この「おとうさん」、不思議と安心してしまうのです。

「コーヒー飲んでいき」といつも美味しいコーヒーを入れてくれてほんの20~30分何気ない話をするだけ、です。

 

しかし、このなんでもないような会話のやりとりがほっとするのです。

 

私は、心が波立ったり、苛立ったり、また過剰に高ぶってる時には、自分の心をニュートラルに落ち着けてくれる人のところに無意識に足が向かいます。

 

現代に生きる私達は過剰なまでに刺激にさらされています。

 

こんな香川県の地方に住んでいても、実は同じです。

 

テレビやインターネット、携帯やゲーム、ありとあらゆるものから発せられる電子的な無機質な音が耳に入ってこない時間はありません。

 

また、目には見えないけれど子供時代にはなかった電磁波や環境の影響を受けています。

 

思いっきり深い深呼吸ができるような場は少なくなっています。

 

それは何気なく生きているだけでも人の心を疲労させるものですし、心が疲労すると同時に体もまた同じように疲労していきます。

 

人はいつも元気全開でいつも前を向いて生きてるわけでは、ありません。

 

時に心が弱り、誰とも会いたくないと感じるほど落ち込んでしまう時も、あります。

そんな時に、心を元気にとまでは言わなくても、ニュートラルな状態に戻してもらえる人や場は本当に貴重です。

 

なぜこの「おとうさん」のお店が居心地がいいのか?

 

それは「おとうさん」の言葉にも理由があります。

私は勝手な想像ですが(笑)

 

「おとうさん」の何気ない言葉はどこまでも優しく、不思議と心の中の充電器をぐい~んと満たしてくれるのです。

 

私は言葉は人間が使いこなせる最大の魔法であり、そしてまた武器にもなる、と思っています。

 

人が人を傷つけるのに刃物は要らないといわれるほど、言葉の威力はすごいものです。

 

言葉の使い方次第で人は恍惚の感動を人に与えることもでき、また絶望も与えることができてしまいます。

 

人を元気づけたり、やる気にさせたり、そして勢いに拍車をかけるのも言葉です。

自分の心を前に向けたり後ろに向けたりするのもまたきっかけ人からの言葉です。

その言葉は直接人にかけられる言葉もあれば、文章にされたものでも同じです。

 

人を生かすも殺すも言葉次第で、自分を腐らすのも、高めていくのも言葉次第です。

 

 

その人がどんな言葉を使っているか、でその人の心の中がどんなものなのかはわかります。

思っていることしか、話すことはできません。

 

また、心の中にある言葉しか、外に出すことは、できません。

 

その大切な言葉ですが、今は、相手を言い負かすこと、自我を主張すること、自己顕示のためのもの、という鋭い刃物のように使うことが多くなってきました。

 

日本人は曖昧(あいまい)な国民と言われます。

日本語はどこまでも、あいまいです。

「この雰囲気を察してよね」

「言わなくてもわかるでしょう」

「一を聴いて10を感じとってね」

こういうことが、今は難しくなってきていると言われています。

 

しかし、

人が「ああここは居心地がいい」と感じる時、そこには確実に

自分の気配を察して気遣ってくれている

自分の心を慮ってくれている

言わなくても気持ちをわかってくれている

というその人の人間力のようなものが確かに働いてるのです。

 

あの人は情がある

とか

人情の人だ

とか、

そういう人はなかなか少なくなってきました。

 

本来は、多くを語らなくても心を分かち合える能力を持っていた日本人です。

合理性、利便性を追求した結果、驚くほど孤独に孤立しあい、人情は消滅し、日本でも普通に「裁判」や「訴訟」が当たりまえの日常がやってきました。

 

横にいる人を信じられない猜疑心をもち、お互いがお互いを信じられない関係が普通になってきています。そしてそれはますますエスカレートしそうです。

 

親が人を疑ってかかるのなら、子供もまた同じように他人を疑います。

親が人を信じないのななら、子供もまた同じように他人を信じません。

小さな組織が家族としたなら、大きくなったものは会社であり、社長が社員を疑えば、社員もまた社長を疑い、そんな人が働く会社にはまた同じように猜疑心のかたまりのような人が集まってくるものなのです。

 

人は本来必ずその中にやさしさを持ち合わせています。

 

しかし、そのやさしさを使える機会がそうそう、ないのです。

 

特に今のような時代は、やさしくしたり、親切にすると逆に変に受け止められたり下ココロがあるととられたり、さらには迷惑がられたりすることも、あります。

 

私は母性型を実践しはじめてすぐ、直感したことがあります。

 

それは、人は人に優しい気持ちを受け取ってもらえている瞬間に何よりの幸福感を感じるものだ、と。

 

優しさとか、気配りとか、思いやりは、発動させられるのを待っています。

しかし、発動させられるのは、疑いの心であったり、イライラする心の方が多く、スイッチを押されてしまいがち、です。

 

 

北風と太陽です。

 

優しい気持ちの前に立てば、自分も自ずと優しい気持ちが引き出され

つめたい気持ちの前に立てば、自分も自ずとつめたい意地悪な気持ちが引き出されます。

 

これはもう本当に、面白いほど、そう!です。

 

どんなに言葉でいいことを取り繕っていても、心の中が苛立って嵐のような状態の人と

一緒にいるとなぜかこちらまで心が揺れイライラが伝染します。

 

気持ちや心や感情と言われるものは、目に見えません。

 

喜んだり悲しんだり、人を愛したり、憎んだりそういう心の内容は体があるからそれを表現することができますが、そのもととなる感情は目には見ません。

 

目には見えないけれど、どの人もその存在は確かにあると実感できるもの、それが心です。

 

その心をいいように傾けるのも、悪いように傾けるのも言葉次第だと、私は思います。

自分が話した言葉を誰よりも聴いているのは自分自身です。

 

 

自分に関わる人に嫌な言葉を注がない、そして自分も嫌な言葉の暗示を受けない、ということは自分を守る知恵だと思います。

 

自分の魂が喜ぶような言葉を!

たくさん欲しいし、たくさん話したいし、またたくさん人にも注ぎたい

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